波乱万丈記 現代文 宗先生 | 東進ハイスクール府中校|東京都

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2013年 4月 26日 波乱万丈記 現代文 宗先生


 
第7回宗 慶二 先生(現代文)
マニュアルに頼らず正面から文章に立ち向かい、生徒を受験という枠組みを越えた『本物』へ育む若手実力講師!
誰でも、完全に、かつ圧倒的に分かる授業を心掛け、実戦で、また将来的にも使える正攻法の考え方や読み方で、多くの生徒を高みへ引っ張る。  
 
最高の“知的ゲーム”文学解釈の神髄を教えてくれた恩師

僕のほうが謙虚なんだと思う」ベテラン現代文講師の意外な言葉

現代文を教えるようになったのは、大学生になって始めた中学・高校受験塾でのアルバイトがきっかけです。ただ、理系の学生であった僕には、実は受験科目「現代文」との接触がありませんでした。つまり、現代文指導に携わるようになったとはいえ、実際は、手探りの状態で教壇に立ち、試行錯誤の連続だったわけです。そんな奮闘の日々のなか、僕に重大な影響を与えてくれた人がいました。今でも僕のただ一人の「師」と言いうる人であるように思います。国語科の主任でいらっしゃった光藤先生です。彼は、二回り以上も年の離れたベテランの先生でしたが、こちらから相談をしない限り、指導について特に口出しはせず、経験の浅い当時の僕を信頼して任せてくださいました。

思い起こすと、僕と光藤先生は、授業展開の方法がじつに対照的でした。説明にさまざまな表現を駆使する僕に対し、先生はたった一言で本質を突くのです。いまでも憧憬しつ続けています。

あるとき、僕は、先生に相談をしました。担当クラス全員の生徒の成績を思うように伸ばしてやることができなかったという悩みです。すると先生は、非常に印象的な一言で回答なさいました。

「たぶんね、宗君。僕のほうが君より、少しだけ謙虚なんだと思う。」

それ以上多くを語らない先生の言葉を、その時の僕は、やはりよく理解できなかったように思います。また別の機会に、こんな相談をしたこともありました。僕たちは、「教育」や「受験指導」を通して、子どもたちをある種の枠にはめ込み、彼らの持つ自由な詩的発想を殺していることにならないでしょうか。

するとやはりこのときも、先生は「謙虚でありなさい」という言葉を使って諭してくださいました。思うに先生は、生徒の持つ「可能性の強靭さ」や「教えることの心構え」のようなものを語ろうとしていらっしゃったのかもしれません。「教育とは、ある意味で鋳型にはめ込む作業かもしれない。しかしそれは人の社会で生き抜く力そのものだ。そして、突破すべき人材はそうした鋳型をすら越えて、必ず飛び出してくるものである。教師ふぜいが、一人の人間を一からすべて育て上げられるなどとは、おこがましいにもほどがある。一人の人間は環境によって育てられる。キミは教祖ではない。教師なのだ」と。

それから僕の授業への取り組み方は変わりました。肩の力を抜くとはこのことですね。自分の力だけで引き上げてやろうと気負うのではなく、勉強のおもしろさを伝える、知的な刺激を与えてやる。それで彼らの日常生活での言葉との付き合い方がちょっとでも変われば、僕の役目は十分だと思うようになったのです。光藤先生に救われました。

「蟹」と「カニ」解釈をめぐる大事件

光藤先生に関する最も印象的な出来事と言えば、都内屈指の有名進学校の入試問題を解説した際のエピソードですね。

出典は日本の純文学作家、M・Tの短編。この物語はなぜか、文中に出てくる「蟹」の漢字表記が最後のクライマックスだけカタカナに変わるのです。その設問は、表記方法を変えた理由を文学上の意図を踏まえて制限字数内(確か400文字前後)で論ぜよ、というものでした。これは実際難問でしたね。

教えるこちらも必死です。設問レベルの高さもさることながら、なにせ全国でも一握りのトップレベル校合格を目論む優秀な生徒たちです。授業はいきおい苛烈なものになりました。内容構成・登場人物の関係を一つずつ解きほぐしながら、チョークで記した模範解答は400字。黒板が文字でいっぱいです。解説をし終えると、期せずして教室から拍手が湧き起こりました。その時の僕は、我ながら得心のいく授業だと思っていました。

ところが、事件が起こります。およそ半年後、子どもたちもそれぞれの志望校へ巣立っていったある日のことです。本屋で、この作家M・Tのエッセイ集を眺めていたら、偶然、先の入試問題に触れている記述を発見したのです。作家M・Tには塾に通っている息子がいたらしく、ある時、「親父の文章が入試問題に出てる!」と先述の問題を見せられたのだそうです。しかし、作家M・Tには、その設問がじつに滑稽なものにしか感じられなかったらしく、その理由に僕は、まさに仰天しました。〈あれは単に、書き間違えただけなんやけど…〉と。なんと、単なる間違いのまま、印刷されて本になってしまったというのです。

それはそれは、ショックでしたよ! 拍手までもらった僕の授業は何だったのかって。現代文講師としての根幹を揺るがす大事件でした。

 

作家が無意識のうちに描き出す舞台装置の価値

 

講師になってから僕は、ひとつだけ自分に課したルールがありました。それは、「嘘」です。嘘を言ってしまうことがあれば、教壇を降りる。さて、作家Mの発言通り、「蟹」から「カニ」に変わったのが単に書き間違いであるなら、僕は「嘘」を言ったことになります。講師を辞めるしかない。思いつめた僕は、光藤先生に相談することにしました。

塾の講師室で例のエッセイを先生に手渡し、該当箇所を一読。光藤先生から返ってきたのは衝撃的な言葉でした。

「ユニークな文章です。でも、私たちは嘘つきではありません」。耳を疑いました。作家M・T自身が、表記ミスであると主張している。その部分を、まことしやかに「文学解釈」してしまった。これが「嘘つきでない」ことがありうるのでしょうか。発言の意味がわからず混乱した僕は、再び尋ねました。「おっしゃっている意味がわかりません。わかるように説明してください」

その時、光藤先生がおっしゃったのはおよそ次のようなことでした。

「文学作品は、作家にとって自ら生み出した我が子のような存在である。最初は一心同体。しかし、いずれ子が親の手を離れるように文学作品も独り立ちするものだ。それはさまざまな読者の眼、心の中を通過し、作家と読者の共同作業で作品の社会的価値・意義が決まるということです。そうして作家が無意識のうちに描きだす舞台装置には、本人すら意識しないさまざまな文学上の意図が込められることがある。作家Mは本当に表記を誤ったのかもしれない。しかし、そこにすら作家の無意識の思想を読み説くおもしろさがある。僕たちは“文学解釈”という知的な解釈ゲームをしているのであり、出題者も、宗君も、僕も、誰も嘘つきではないのだ」

―「師」に大切なことを教わる、密度の濃い瞬間に巡り合っているのだと感じました。

でも、そのときの僕はやはり、単なる詭弁にも思えたのです。辞職する話はいったん保留することにしました。しばらく考えてみよう。先生の言葉が理解できないなら、やはり講師は辞める。嘘つきでは、生徒たちの前には立てない。でも、もし理解できたなら、僕はこの仕事を続けるだろう…

あれから長い歳月が過ぎましたが、僕は教壇に立ち続けています。

 
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